本文へスキップ

「日本はどうやって原発を選んだのか」との問いに立ち尽くした


 3月17日、以前から計画していた海外調査のため、成田から欧州に向かった。成田空港は、出国しようとする外国人であふれ、床に敷物を敷いて搭乗を待つ人々が大勢いた。搭乗予定だった航空機(日本の航空会社ではない)は、予定のフライトがキャンセルされ、代わりに政府手配による救援機として取り扱われていた。そのため欧州ではなく、予定外にアジアの某国で降ろされた。日本人の姿のほとんどなかった機内の雰囲気は、とにかく「日本」から脱出できてほっとした、というところだった。

 日本を出ると、震災の情報は外国語でしか入ってこなくなった。インターネットが普及しているとはいえ、これほど国内にいるときと情報格差が生じたのは意外であった。もっとも、道中どこの国でも、あらゆる新聞と雑誌の表紙が津波と原発事故で埋め尽くされていた。

 科学技術と法に関し、フランスとスイスでは研究者や政府関係者と面談したが、行く先々で異口同音に尋ねられたのは、日本はどうやって原子力を選んだのか、ということだ。残念ながら私自身には原子力を「選んだ」自覚はない。おそらく多くの国民も同じだろう。確かに、原子力政策円卓会議などは存在し、原子力政策に関する民意について議論されてきたが、既定路線として原子力は社会に存在し、それに疑念を抱く人々とともにずっと社会にあり続けてきたのだ。

 原子力発電所に関する訴訟の数々とそれに関する判例をある程度は知ってはいたが、不明にも、地震や津波に原子力発電所が襲われる可能性を、それほど差し迫って危険とは感じていなかった。そんな私は、「被爆国でありながらなぜ?しかも、津波も地震もある日本で海岸に?」と問われて、情けないことに答えにつまるほかなかった。私は個人としても弁護士としても、その問題にきちんと向き合い行動したことはなかったからだ。我が国を代表する原発訴訟の判例となった四国電力伊方原発は、海を隔てて、私の家の目と鼻の先にあるのに。

 確かに、どうして、日本で原子力に関する議論が国民的に盛り上がってこなかったのだろう。住民投票も訴訟も、地域的な問題として取り扱われてきたように思う。

 逆に言えば、津波も地震もほとんどない欧州の国々で、原子力に関して議論がされているのはなぜか。そして、原子力を選択しない国が存在するのはなぜか。もちろん各国によって事情は様々だろう。しかし、想定外のリスクが科学技術につきまとう、というある種の前提がそこにはある。近代科学を生み出した欧州の人々は、人の産み出したる科学と技術の限界を肌で感じているのではないか。経済復興の手段として科学技術をとらえる傾向の強い日本との温度差を顕著に感じた。

 平時にみえる西日本でも、できることがあるとするなら、声をあげること、議論することも一つではないか。この災厄とそれに伴う事故発生が予見できたかどうかが当面、議論の的になるだろう。そうした予見可能性を前提に事後的な損害賠償責任を追及するということは、これまで繰り返し行われてきた。しかし、本来議論すべきは、科学技術につきまとう想定外の(不確実と言ってもよい)リスクと社会がどう向き合うか、科学技術の不確実性を取り扱える社会(法)制度をこれからどのように構築するのかといったことではないだろうか。

 パリの深夜、故郷の町が津波に襲われ、娘がのまれる夢を見て、はっと目が覚めた。あまりの生々しさに、息をのみ、それが悪夢であったことに安堵する一方で、決して覚めない悪夢を今も見ている無数の人々を思って、胸が張り裂けた。科学技術を論じる際に必要なのは、何よりも、想像力なのかもしれない

中村多美子

プロジェクト連絡先

 弁護士法人
 リブラ法律事務所
 〒870-0049
 Tel.097-538-7720
 Fax.097-538-7730
 Mail.lybra