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裁判官が科学技術をめぐる訴訟を判断するには(上)


 原発事故以降、「裁判官弁明せず」という従来の慣行を破って元裁判官がマスメディアのインタビューに応じる記事が散見されるようになってきた。そうした一連の報道の中、もんじゅ裁判で国側敗訴判決を言い渡した川崎和夫氏(当時の名古屋高裁金沢支部裁判長)のインタビュー記事が、5月22日付け朝日新聞朝刊に掲載された。 

 先端技術をめぐる裁判で、その科学技術の分野について全く素人の法律家は、どうやったら判断できるのか。これは原発裁判に限らない、困難な問題だ。その分野の専門家から見れば、法律家の議論は不可解なものに見えるだろう。「弁護士は全く不勉強だ」「裁判官は何もわかっていなかった」などの批判を受けることも珍しくない。とはいえ、膨大な専門的情報とそれを理解するために必要な基礎知識を法律家が蓄えるのは、至難の業だ。

  川崎氏のインタビューは、この点に関する率直な悩みを吐露している。

 「名古屋高裁金沢支部への異動の発令直後に(もんじゅ訴訟担当と)知らされ、『ついてないなあ』と思いました。原発訴訟を担当して喜ぶ裁判官はいないと思います。『控訴棄却』の結論がある程度予測されるのに、他の事件も通常通り処理しながら、膨大な記録を読まなければならないなど負担が大変だからです」

 ほかにも、川崎氏のインタビューからは、裁判というシステムにおいて、一般にはあまり知られていない裁判官の悩みが浮かび上がってくる。

 まず、裁判官は、担当する事件を選べない。裁判官は、定期的に人事異動で全国各地の裁判所に赴任する。裁判官の取り扱う事件の種類は多種多様だが、大部分はある程度類型化され、法の適用も比較的単純化されている。もんじゅ訴訟のような最先端科学技術紛争を審理するのは、日常的な業務とは言い難い。しかも、弁護士と異なり、裁判官は自ら望んで事件を担当するわけではない。ちなみに、負担の大きい訴訟を担当したからといって、裁判官の給料(俸給という)が変わるわけでもない。

 次に、裁判官は、孤独である。弁護士は、原告側・被告側を問わず、どれだけの人数で弁護団を組もうとも自由である。実際、弁護士や訟務検事(国側の代理人をこう呼ぶ)などがそれぞれ人海戦術で作業することは珍しくない。しかし、裁判官は、多くて3名の裁判官からなる合議体しか組めない(最高裁は別である)。しかも、膨大な数の事件を日常的に処理しつつ、もんじゅ裁判のような社会的責任の重い訴訟をも担当する。原告側、被告側から次から次に提出されてくる膨大な書面と証拠を、原則として誰に相談することもできず、たった3人で読み込まねばならない重責は想像を絶する。ちなみに、もんじゅのような大訴訟になると、裁判官室の記録保管用ロッカー一つがまるまるその事件記録だけで占拠される状況もしばしば発生すると聞く(もちろん、法律事務所だって同様だ。積み上げられた事件記録の段ボール箱の雪崩に遭ったのは私だけではあるまい)。

 さらに、裁判官には、判決がもたらす社会的影響を考慮して結論を決めることがある。この点を素直に述べる裁判官は意外と少ないと思うが、川崎氏は、もんじゅ訴訟を担当することになったときの感想について、「『控訴棄却』結論がある程度予想される」と発言している。

 裁判官は、予断を持たず証拠と法に基づいて粛々と判決をしているのではないかと思う人々からすると、この発言は意外かもしれない。最初は、その事件の判決がどのような結論になるのか全く白紙の状態で、裁判官が公正に証拠を評価して徐々に判決となる結論が見いだされていく、というのが一般的な裁判に対するイメージであろう。

 確かに、金を貸したか返したかといった典型的で対等な私人間の紛争の場合は、中立な裁判官が公正に証拠に基づいて法を適用して判決を下すという通常のイメージがあてはまる。

 しかし、政策形成が問われる裁判(政策形成型裁判などと呼ばれる)では、裁判所もまた政治的なシステムの中に深く組み込まれているという現実が露呈する。現代の社会において、裁判所は政治から完全に中立ではありえない。政策形成型裁判では、裁判官が、裁判が社会にもたらす結果を予測しつつ法的論証をせざるをえない。逆説的であるかもしれないが、その判決がどのような結果をもたらすのかというある種政治的ともいえる予測こそが、その裁判の結論の真の(隠された)理由とさえなる。もんじゅを差し止めるという結論がもたらす社会的影響を考えたとき、川崎氏の脳裏には「控訴棄却」という結論が真っ先に浮かんだであろう。

 加えて、川崎氏は「原発のような先端的技術に関する訴訟では、専門家の意見が決定的に重要」(上記インタビューより)という現実を指摘する。もんじゅでは、専門家達が議論した上で政府がゴーサインを出している。先端的科学技術に関する判断を、たった3人の、しかも専門家でもない裁判官達が覆した場合、それが社会にもたらす(政治的)影響はいかほどのものであろうか。政策形成型裁判では、型どおりの法適用によってのみなされているわけではない。裁判官といえども、"政治的"な視点から無縁ではいられない。

 だからそもそも、裁判所にこのような政策形成機能を期待すべきでないという議論も根強くある。"政治"は政府と議会に任せておくべきであり、裁判所は憲法の番人として、予め定められた法を適用して個別の紛争を解決する以上のことに関わるべきでないとする考え方である。

 対して、政府と議会による"政治"に不満を持ち、むしろ、もんじゅ差し止めのような判決を期待して、裁判を過大に政治的に利用しようとする動きもある。

 賛否両論あっても、裁判所に裁判の形をとった政治が持ち込まれるという状況は現に存在するし、しかも争点が科学技術政策に関するものであるとき、司法はもう一つの特別な難題に直面する。それが冒頭に述べた、科学技術という高度に専門性を要求される事柄を、素人の法律家がどう判断したらよいのか、という課題である。次稿で川崎氏が、もんじゅ裁判で、現行制度の中で対処した工夫について考えてみたい。

中村多美子

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