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弁護士が見たiPS研究(その2) 「倫理」の問題を真正面から議論すべきだ


ELSI(エルシー)とは、「倫理的・法的・社会的課題」の英語の頭文字をとった言葉だ。新しい科学技術や医療技術を取り入れる際、ELSIの検討が不可欠だと言われている。iPS細胞研究が可能にするとされる再生医療・移植医療の分野では、今後、世界各国で様々な応用研究が行われるだろう。当初予想もしなかった、倫理的、法的、社会的な問題が立ち現れてくることも想像に難くない。

 日本でELSIというキーワードがよく聞かれるようになったのは、平成16年度科学技術白書で取り上げられてからだと思う。私が、このキーワードに出くわすたびに思うのは、「法」と「倫理」とはどのように区別しているのだろうかという点である。私も、「法」という言葉を使っているものの、「法」を定義することは、実は簡単ではない。「岩波哲学・思想辞典」の「法」をひいてみると、のっけから、「法学者は未だに法の定義を求めている(カント)」と書いてあるくらいである。ちなみに、「倫理」はというと、「倫理学」という項目名で「人間のよい生き方を問い、それを吟味する学」とされている。

 ELSIについて、法律家が「倫理」についても語ると期待されているように感じることがあるが、実は、法律家は、倫理学が求めるような「よい生き方」、もしくは「よき社会、よき文明」のような問いについては、シニカルな態度を持っているように思う。

 科学技術振興機構(JST)社会技術研究開発センター(RISTEX)のあるプロジェクトで、再生医療について連続的にワークショップを開催していた機会に、弁護士有志を集めて協力したことがある。再生医療に関する論点を抽出しようとする手法に、弁護士のみによるグループと弁護士を含まないグループとが同時に参加したのであるが、2つのグループの間には結論に至るスピードに顕著な差があった。参加していた弁護士に、再生医療の前提知識はほとんどなく、非弁護士グループとその点では差はない。しかし、弁護士たちは、「倫理」についてほとんど議論しようとしなかった。と同時に、おそらく主催者側の予想に反して、弁護士らの論点抽出は極めて速かった。弁護士でないグループでは、再生医療では貧富の格差が反映されるのではないか、命や傷害のみならず美容や長寿などにも影響が出るのではないか、再生医療で思わぬ副作用が発生したら誰が責任をとるのかなどなど、「再生医療を進めることは、『善い』ことなのかどうなのか」という問題が幅広く語り合われた。これに対し、弁護士のグループでも同じような論点は出るのであるが、再生医療そのものの「是非」にはほとんど踏み込まず、再生医療によって予想される問題を淡々と抽出し、その階層を整理していったのである。

 弁護士グループが、再生医療の是非に踏み込まなかった様子を見て、私は、いかにも弁護士らしいと苦笑した。なぜなら、再生医療の是非のような倫理的問題には、その意見の根本に「価値」があり、それに単純な優劣がつけられないため、「価値」の異なる相手とその内容について議論しても「しかたがない」という思考様式を、おそらく弁護士は共有しているからだ。同時に、「価値」の問題を整理する技法(法律家の論理形式とでも言うのだろうか)を共有しているので、話がいたずらに拡散しない。

 ELSIを議論する際、法律家(ここでは法曹三者、すなわち、裁判官、検察官、弁護士をいう)の専門性は、おそらく「価値」に関する議論を整理する技法にある。しかし、法律家でない人は、法律家が倫理的な是非そのものについても判断できると誤解しているようである。そのため、科学技術に対する法的規制のあり方そのものを法律家が関与すれば決められると思われることさえある。

 法律家は、確かに「価値」の問題を扱うが、なにが「善い」ことなのかという倫理そのものの扱っているわけではない。法律家が法的思考の尺度として用いる各種法規の根本には、決定された価値がある。ただ、それは法律家だけで決めたものではない。どのような科学技術を望むのか、どのような社会のあり方を「よい」ものとするのかは、社会、最終的には政治の過程で決められている。

 iPS細胞研究をめぐる社会的な盛り上がりを見るにつけ、私は、様々な法規の運用にあたって、生命という倫理的な価値について、しっかりとした議論がないことがどうにも気がかりだ。生命倫理基本法のような根本法がないまま、具体的な問題が発生する都度、パッチ的に作成されるガイドラインや通達や詳細な法規などで対応するのには限界がある(そういう意味では、法典というのは、失敗の歴史そのものだ)。社会が向かうべき未来の価値的な方向性を議論するというのは、日本人は苦手かもしれない。しかし、iPS細胞研究を契機に、創薬や再生医療の分野で世界的なアドバンテージを得ようとするなら、「生命」とは何か、「ヒト」とは何かという倫理的であり、かつ法的に定義の決定が必要とされる根本問題を避けてはとおれない。

 科学技術を規制する法制度は、科学技術に対する法のブレーキである。そのブレーキの加減を法律家がちょうどよくコントロールするためにも、今こそ、「倫理」の問題を正面から議論する必要がある。そして、iPS細胞について科学技術の専門ではない法律家も、価値の議論の整理には一役買えるかもしれない。

中村多美子

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